【小説】「豪雨」
「私がなんで怒っているか分かる?」
彼女はアイスコーヒーをスプーンでかき混ぜながら僕の目を覗き込んでいた。彼女が怒っているということにさえ僕は気づいていなかった。彼女はどんなときでも微笑んでいた。
「僕が」、僕はそれだけ言って口を閉じた。僕が悪いということは分かっていた。けれど僕はあまりにも悪いことをしすぎていて、もはやどれが彼女の怒りを買ったのか分からないところまできていた。
彼女の口角はまだ上がっていた。大きな目が店内の白熱灯の光を受けてきらきら輝いていた。彼女はおそらく泣いていた。彼女は涙を流さずに泣くことのできる人だった。
「やめようか」
しばらくして彼女はそう呟くと、アイスコーヒーのグラスを手にさっと立ち上がった。僕も一拍遅れて彼女に続いた。僕は答えを出せなかった。このときも、そして今も。
「ねえ、私がなんで怒っているか分かる?」
彼女は時折この質問を僕へ投げかけた。けれど僕は一度だってそれに答えてやれなかった。僕の肉体も僕の精神も僕の存在そのものも、すべてが彼女を怒らせているような気がした。一方で、彼女は実のところ何も怒っていないながら僕が何かしら口を滑らせるのを待っているようでもあった。
店の外は思いのほか寒く、叩きつけるような豪雨に濡れていた。僕は自分の傘をさした。彼女も自分の傘を取り出した。僕らはそれぞれの傘に守られながら水浸しの街を歩いた。彼女は何も言わなかった。この雨の中で何かを言ったとて、互いに何も聞こえないだろうというのが分かっていたのだ。
「あなたはさ」
駅の改札口の横で、彼女はふと思い出したような声色で言った。
「私といて楽しい?」
唐突な問いだった。僕は咄嗟に首を縦に振った。当たり前じゃん、楽しいよ、好きだから、率直な言葉が舌の上をいくつも滑っていった。
「そう」
彼女はいつものように微笑んで、それだけ返した。
あなたは?
僕が問い返すと、彼女は微笑んだまま、――本当にそうだったろうか? 僕は彼女の微笑を正しく見分けていただろうか? 本当はそこに何か重大なものがあったのではないか? ――形のいい唇を開いた。
「さあ」
彼女はそれ以上の何事も僕に言わせてはくれなかった。手をひらりと振って、踵を返して、彼女は改札の向こうへ吸い込まれていった。拒絶するような彼女の背中が僕の目に焼き付いた。
あれから僕らは何年も一緒にいる。それでも、彼女がなぜ怒っているのか、僕には未だ分からないままなのだ。
――
作者は彼らの姿を見て長い嘆息を漏らした。そして肺中の空気を吐き出したかと思われるほどの溜息を吐き終えると、誰に聞かせるでもなく、ポツリと呟いたのだった。
「私がなんで怒っているか分かる?」