堂々とセックスできるようになりたいよな
仕事で失敗したとき、約束の時間に間に合わなかったとき、生きていてごめんなさいという状況になったとき、僕は割と咄嗟に謝るタイプだ。
しかし僕の「謝罪」は大抵の場合、相手をめちゃくちゃに怒らせる。
理由は簡単で、僕があまりに謝りすぎるからだ。
僕としてはひとつひとつの言葉に心からの懺悔を込めているつもりなのだが、もっと冷静に自分を眺めてみると、どうも僕の謝罪には下心がふんだんに使われているらしい。
相手に不快感を与えてしまったという恐怖や後悔から解放されようとして、或いは、これ以上相手に怒られるのを避けようとして。僕の「ごめん」には汚い自己防衛の意味が大いに含まれているようだ。そして相手は、それを読み取ってしまうからこそ苛立つのだ。
そもそも謝罪が防衛となるのは、相手がこちらの謝罪を受け入れ、赦してくれてこそだ。つまり僕はあらかじめ「赦してくれることを期待して謝っている」のではないか……その考えに行き着いたとき、自分の言葉に潜む「期待」の浅ましさに、僕はゾッとしてしまったのだった。
「死なないで」と返してくれることを期待して、「死んでやる」と呻くように。
「私も愛してるわ」と返してくれることを期待して、「愛してる」と口にするように。
なんだかそれって狡いんじゃないか、と僕は懊悩した。期待する言葉を相手の口から聞きたくて、期待する行動を相手にとってほしくて、期待する感情を相手に抱いてほしくて、そうやって紡がれる僕の言葉は、僕の行動は、あまりに自分本位なものなんじゃないか。まるで相手を操ろうとしているかのようだ。
そして謝罪が受け入れられず、つまり相手を操るのに失敗して、相手の怒りを買ったとき、僕はじわじわと恐怖に襲われるのだ。謝ったのに赦してもらえなかった、と。
それは相手に対して失礼なんじゃないだろうか。僕は他者を尊重しているかのようなふりをして、自分のことしか考えていないのだ。
などと考えて闇に飲まれつつあった僕は、じゃあ逆にこうした醜い「期待」から解放された態度というのはどういうものなんだろうというのを考えようとしてみたのだが、考えれば考えるほどドツボにハマってしまった。
おはよう、という挨拶にも、見方によっては「相手がおはようと返してくれるという期待」が込められているといえるかもしれない。
ありがとう、と声をかけるのは、相手がとった行動の正しさを保障し、相手に「次もやってあげよう」という感情を抱かせるためなのかもしれない。
ひねくれてしまえば、僕の言葉のほとんどに「相手への期待」が込められているような気がする。いや言葉だけではなく、“言動”という言い方で話を広げてもいい。
疲れていそうな相手にさりげなく席を譲るのは、相手がこっそりツイッターなんかに僕のことを呟きでもしてくれるんじゃないかと思っているからだ。
飯を食ったあとすぐ皿を洗うのは、一度でも怠ると「お前はいつも皿洗いすらしない」と叱られてしまうのでそれを避けるためだ。
善意って何なんだろう。
Aが謝る。謝るのは赦されたいからだ。
Bが赦す。赦すのはAに感謝されたいからだ。
Aはありがとうと涙を流す。お礼を言うのはBにまた次も赦してもらおうと考えているからだ。
Bは別にいいんだよと微笑む。Bが微笑むのはAに寛容な自分をアピールしておきたいからだ。
AもBも僕なんだよな。
他人のエゴイズムは醜いと思わないのだが、自分のエゴイストな部分を自覚すると虚しさに包まれてしまう。対価を期待しながら行動する自分の情けなさに耐えられない。
とかなんとか。
ところで、「相手が自分を受け入れてくれると期待して行う」という点で、セックスにも「対価の期待」めいた要素があると思う。
相手の気持ちは絶対にわからないのに、「相手は自分に体を赦してくれる」という期待のもと、己の体を相手に押し付けるわけなのだから。
それは「相手は自分を赦してくれる」と期待して己の謝罪を相手に押し付けることと似ているような、気がした。
もちろんこれは僕だけの話だ。
僕以外の人たちには赦される権利があるから、赦されることを期待して行動することに何の問題もない。僕は赦されるべきでない場合にも赦されることを期待して咄嗟に謝罪してみせてしまうから悪質なのだ。僕以外の人たちは愛されているから、受け入れられることを期待していてもいい。僕は自分が愛されているとは思えないので、受け入れられたいなどと期待すること自体が滑稽なのだ。
……本当は。
自分は心から反省と懺悔とを込めて謝罪しているのだと、自信を持てるようになればいいのだろう。自分は相手を愛しているし相手も自分を愛しているからなんの障害もないのだと、疑いなく信じられるようになればいいのだろう。自分の醜さを受け入れて乗り越えればいいのだろう。
……なんて、言葉で言うのは簡単だけれども。
堂々とセックスできるようになりたいよな。